しょうゆかけご飯

明日からは我慢しないでしょうゆかけご飯を食べようという話。
(以下、卵かけご飯 = TKG のルールに従い、しょうゆかけご飯を SKG と呼称する)


ひとり暮らしで自炊をしていると、時々我慢できなくなってSKGをやってしまうことがある。
いつも思うのだが、何故この行為は基本的に禁止事項にされているのだろうか。これほどまでにシンプルに、醤油の素晴らしさを感じさせる料理(?)も無いと思うのだが。


醤油が万能であることを否定する人はあんまいないだろう。(ソース万能派はうどんという反例について一度考えてほしい。マヨネーズ、ケチャップ派は知らない)
その万能さの源は、「甘味」「酸味」「塩味」「苦味」「うま味」という5つの基本味を全て持っているというところにある[1]わけだが、SKGは、この万能さ、というのがすなわち、どういうことか、というのを感じる一番の方法ではないかと思う。
「たれ」みたいに、色々混ざったのだと、しょうゆ自体がどれかわからなくなってしまうし、しょうゆをダイレクトに摂取するのは、ちょっとしょっぱすぎる。
ところが、ご飯にかけることによって、まさに、まさに、これのために米は生まれたんではないか、というほどに、しょうゆの味が良い感じになる程度に希釈されて、「しょうゆ」、というものが、本来、どういう味をしているのか、と、いうのを、非常に、非常に、わかりやすく、感じさせてくれる。


SKGを食べたことが無い人にはわからんと思うが、しょうゆというのは、単に、なんとなくしょっぱいだけの液体ではなくてですね、それ単体が、どことなく懐しい、日本の原風景を感じさせる、ブワっとした感じがですね、こう、ドドーンと、なんか、そういう。


ご飯に液体をかけるだけで、これほどの感動と満足感を与えてくれる、そんなものが、すごく、お手軽に、というか、毎日のように、米と、しょうゆは、食卓に一緒に存在している、と、いうのに、何故、それを一緒にするという行為が、世間一般では、禁止事項とされているのか、そこが納得いかないわけである。


まあ、なんとなく、勝手な想像をすると、昔、食料が貴重だったころ、SKGを認めてしまうと、村中の人が、しょうゆを奪い合って殺し合いに発展する事態が多発したに違いない。そこで、村長は、そんな醜い争いをするぐらいなら、SKGを封印しよう、と、そういう伝統が、引き継がれて、今でもごはんにしょうゆをかければ、「そんなことは止めなさい」と、親に止められてしまうのだろう。


しかし、今は飽食の時代である。飽食の時代、が、いいかどうかは知らんが、そんな時代に生まれてしまったからには、その時代のメリットを最大限活かした生きかたをするべきである。すなわち、我々は、ごはんにしょうゆをかけるという行為に躊躇する必要はないのだ。


寿司のシャリにしょうゆをしみこませる人、冷奴丼を食べる人、炊き込みご飯を食べる人、焼きおにぎりを食べる人、吉野家でつゆだくを頼む人、味付け海苔がないと米が食べられない人、味付け海苔にさらにしょうゆを付ける人、たまごかけごはんのたまごに醤油ちょっと多めに入れてしまう人、煮魚の汁をご飯にかけてしまう人、おかかにしょうゆしみこませてそれをご飯にのせる人…みんな、みんな、本当は、本心では、ごはんにしょうゆかけたいと思ってるんだろう?それを、そうやって、「これはご飯に醤油をかけているのではない!」などと言いわけをしながら、自分を騙して、中途半端な満足を得ようなど、効率が悪過ぎると思わないか?


そう、ごはんにしょうゆをかけるという行為を遠慮しなければならない理由なんてどこにもない。明日からは、自分に嘘を付くのをやめて、食卓に、いつもある、その一見黒いが、よくみると、赤みを帯びた、その液体を、ごはんにかけるんだ!僕はやらないけど!

related work

http://portal.nifty.com/special04/03/21/index.htm
しょうゆごはんがどう思われているかについて記述されている。

参考

[1] おいしさは「味」「香り」「色」の三位一体から生まれる
http://www.kikkoman.co.jp/soyworld/museum/taste/trinity.html
しょうゆについて。