無駄

オリンピックロゴも、競技場ザハ案も、会長も、国民からのクレームでやりなおし(いや私は国民だけどどうでもいいと思ってるのでクレーム出してない。これは必要以上に主語が大きくなっている。いわゆるビッグシュゴだ)。現代民主主義の象徴やな。

どれもまあロクでもない経緯があるように見えるけど、新聞しかなかった時代なら誰もロクでもないと知ることも無く穏便に終わってただろうな。

(いやでもザハ案は今の競技場の写真と比べたらクソカッコよく見えるからやっぱやるべきだったのでは…)

MMTとかみたいな、「国の予算はもっと無駄遣いすべき!」みたいな説を信じてる人は、オリンピックとかいう究極の無駄について考えてみるべきだと思いますね。国の予算が増えればオリンピックみたいな無駄が実施される、という現象が発生する。

よく「財務省が諸悪の根源」みたいな言われかたするけど、「財務省がちゃんと財布管理して、オリンピックとかいう無駄を止めてればよかった」みたいな考えかたもできるわけ。

「オリンピックみたいなのではなく、もっと○○に無駄遣いしろ!」という考えをするのも危険でしょ。よく知りもしない他人の仕事と自分の仕事のどちらが無駄かどうかを比較するのなんて無理だし、できると思ってる奴は危険な思想の持ち主だとわたしは思う。



国レベルで見ると、予算というのは、いくらでもやりようのある現金ではなくて、その背後にある実際のリソースに律速するわけ。


オリンピックで考えると、競技場作り直すために使われたリソースが無駄遣いされてなければ、もっとなんか地方の壊れそうな橋やトンネルを修復するのに使えたかもしれない。

これは、現象としては、

  • 建設会社にオリンピック関連の補助付きの仕事が行って、建設会社は潤う。建設会社のリソースは需要が上がるので値段があがる
  • 建設の値段が上がるので、地方の予算に余裕の無い自治体は橋やトンネルを修復したりできなくなる

という形で表面化する。(まあ競技場建てるリソースと橋を修復リソースがどれだけ重複してるかは私は知らんので雑な議論だけど)


オリンピックが無ければ、地方の橋やトンネルは修復されたかもしれない。(ただ、その場合は建設会社が安い仕事を請け負ってるわけで、建設会社としてはあまり嬉しくはない)


そういうふうに考えれば、「何か健全ではないことが起きてるかも?」という気がしてこないだろうか。


結局MMTみたいな「国の予算もっと増やせ」という考えかたは「実際のリソース配分を判断する人が一部の権力者に偏ってしまう」という形で表面化すると思ってる。

オリンピックをやるかどうかの決定において、大半の国民の意思が入る余地なんてなかったでしょ。それに比べたら、「地方の壊れそうな橋をどういう優先度付けて修復していくか」という判断のほうが、自治体レベルの話になってるので、まだ住民の判断が入ってるのではないでしょうか。


もちろん、オリンピックだって、国威発揚になってみんなが元気になれば、プラスになるかもしれない可能性はある。ただ、僕が健全ではないと思うのは、「やるかどうかの判断に関わっている人間が少ないのでは?」という点だ。


現代の社会の複雑さでは、「一部の賢い人間が全てを判断する」のはもう難しくて、たとえ効率悪くても、それぞれ個人個人がなんかうまいこと判断していかないといけない。
現代の民主主義はひとりひとりがよく考えて判断する、というのを前提に動いてるでしょ。「国の予算もっと増やせ」というのは、その方向に反してると、思いますね。


まあ、これは程度問題ではあって、「雇用を守る」みたいな話になってくる。まあなにごともホドホド…ホドホドがいいデスネ。MMTはホドホドではないと思っている。