人がEmacsをやめるとき

Emacsを使わなくなった」、という人が理解できない、というのは何回か書いたことがあるんだけど、なんか、ちょっとだけわかってしまった、という話。


大阪に帰るのに、色々大きいのを持って帰るのがいやだったので、眠っていたZaurusを持って帰ることにした。
家にWindowsマシンある(新しく買ったらしい、というか、セットアップをやらされた)ので、別にわざわざ何かを用意する必要も無いのだけど、やっぱり、Linuxでないとだめなので(何が?)Zaurusを。


んで、家でやることなくて、暇だったので、適当にいじる。
pdaXromが良い。けど、やっぱ、メモリが。と、いうことで、pdaXrom上でevilwmを動かすことに。こういうとき、心がevilwm慣れしてると良い。


と、まあそんな感じで、色々作業してたのだけど、Emacsインストールするのが、なんか、面倒だったので、適当にvim+その他ツール郡(以下、vi環境とする)で作業をすることに。
最初のうちは少し辛いかと思ったのだけど、慣れてくると、なんか、まあ、それなりに、なんとかなるもので、もはや、今の僕は、「これであと、GNU screen使いこなせるようになれば、もはやXもいらないんじゃね?」ぐらいの状態になってしまったのである。


とはいっても、家に帰れば、またもとの環境(以下、Emacs環境とする)に戻って、X無しでは生きられないようになってしまうだろう。少し、つまらないような気がするけど。
だが、しかし、もし、この後も、Emacsの無い環境で作業をする必要に迫られたら、僕は一体どうなるだろう。
おそらく、Emacs環境とvi環境の思考の切り替えが面倒になって、家のパソコン環境でもviを使うようになってしまうだろう。
そうして、viにも慣れてしまうと、Emacsと同じくらいの早さで作業ができるようになって、Emacs環境に戻る動機がなくなってしまうはずだ。おそらく、その後もvi環境で生き続けるに違いない。


ここで、「本人、特に意識したわけでもなく、苦労したわけでもなく、なんとなく、vi環境に移行してしまう」、という現象が起こってしまっているのである。
Emacsしか使っていないと、「Emacs環境からvi環境に移る」と、いう現象が理解できないのだけど、なんか、こういうふうに自分が、順を追って、そういうことをやってみると、その現象も理解できたりするもので、まあ、それが、面白かった、というだけの話。だからどうした。


んで、どうでもいいのだけど、Emacs環境からvi環境への移行には、

  • Emacsな人がvi環境に行ってもそれなりになんとかなる
  • Emacsが使えない環境はあるけど、viが使えない環境はほぼ存在しない

というのがあるのだけど、これって一方通行なんだよな。


なんとなくvi使いになっちゃう人はいても、なんとなくEmacs使いになっちゃう人は少ないかもしれないし、そんなことないかもしれない。知らない。