なんでディレクトリ構造はグラフではなく木構造なのか?

なんで?

POSIXにはシンボリックリンクがあるのでグラフもどきといえる。実際には親ディレクトリの概念があって, cd a; cd .. の動作がいまいちなのでもどきでしかないが。


ここで、ツリーにしておくことで「親ディレクトリ」というインターフェースができてると考える。
グラフはツリーより一般な形であるが、より一般であるからといって、全てのインターフェースを持つとは限らない。

でもLinuxではbindできるから既にグラフになってる気もするな…あれなんでbindしたら親ディレクトリ("..")も更新されてるのだろう…ちょっとファイルシステムの基本から勉強しなおさないといけない気が(するだけで実際にはしない)

プログラマは統一されたインターフェースを望むのか望まないのか

webにあるテキストのうちで、僕の思考に影響を与えてる文の一つとして以下の文があるのだが、
http://homepage3.nifty.com/mogami/diary/d0708.html#071
プログラマは何故インターフェースを統一したくなったり個性を持たせたくなったりしてしまうのだろうな。

どっちかに統一すべき。インターフェースは世界統一単一のものにするか、それともインターフェースの共通化なんてやめてしまうか。

Cygwinに対応するconfigure.acを書くときの基本

色々なことを恐れないでcase *cygwin*) を書いて、全てを絶対パスで書く。

  • どんなに頑張って書いても将来のautomake, libtoolで動く保証は無い
  • どんなに頑張って書いても最後はダーティハックと戦うことに
  • それならむしろ修正しやすいように直接パスが書いてあるほうがわかりやすい

Linuxの人はWindowsが必要だというのを認めるが、Macの人はWindowsなんて無くなってしまっても構わないと考えている。(サンプル数2。僕がWindows対応してたら、後ろのふたりにそんなことしなくてもいいだろ的な目で見られたので)