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なんか、今日は食べたいときに食べて寝たいときに寝てる感じだったよ。
「俺達がダメになったんじゃない!世界が求める能力が高くなりすぎただけなんだ!」という言いわけ。
http://d.hatena.ne.jp/Malan/20060914#1158218424
いやー、僕がダメでないということは全然なくて、どれぐらいダメなのかというと、おとといは僕のあまりのダメさに耐えかねた先輩によって、うちに一晩泊まって休日まる一日マンツーマンで色々教えてもらうという素敵イベントが発生するぐらいでした。(マジで)
いや、別に素敵じゃなかった。殺伐と。とりあえず、皇国の守護者を勧めておいた。
↑ここまで日記。↓ここから日記。
さて、僕と近い年代の人(25±4くらい?いや、Malanさんの年齢はわからないですが)の特徴として、「自分はダメだー」というのを、主張するというのが挙げられると思う。いや、僕は特にダメなんだけど。(←こういう感じ。←最近この表現を使いすぎだな)
はっきり言って、そのぐらいの世代の人で、自分のことをダメだと思ってない人間は、
- ほんとに素晴らしい才能の持ち主
- 神経どうかしてる
のどちらかでしかないと思う。そうでない一般のほとんどの人間は、自分のことをダメだと思ってるだろう。(いや、実際調査したわけじゃないのでわからんけど)
と、いうのは、もちろん、そのぐらいの世代の人間が、ほんとにダメだというのもあるだろうけど、そうでなくて、そこらへんの世代の人間っていうのは、「〜ぐらいできないとまともな仕事はできない」というように恐喝され続けて生きてきたというのがあるかもしれない。
- 英語ぐらいできないと
- コミュニケーション能力低いと
- 人よりさらに勉強する気がないと
- 社会の情勢ぐらい知っとかないと
- Excelぐらい使えないと
- パソコンぐらい使えないと
- 大学ぐらい出てないと
- 良い大学出てないと
- ちゃんとした日本語書くぐらいできないと
- 日本語ちゃんと読むぐらいできないと
- オブジェクト指向ぐらい理解してもらわないと
- IOモナドぐらい使いこなしてくれないと
- 電車ぐらいひとりで乗れないと
- おつかいくらいひとりで行けないと
- トイレぐらいひとりで行けないと
挙げていけばきりがない。しかし、この中で、実際どれもこれもこなせる人間なんているのか?
実際、一般の人間の能力では、上のうち、せいぜい1個とか2個とかぐらいこなしていくのが精一杯だと思う。
「英語ぐらいできないと」と言われては、コンプレックスを刺激され、「良い大学出てないと」と言われてはコンプレックスを刺激され、「ちゃんとした日本語ぐらい書けないと」と言われては、コンプレックスを刺激される。
それで、コンプレックスを刺激されるだけならblogで愚痴ってればいいけど、blogを見ていくと、良い大学出てて、英語もできて、ちゃんとした日本語も書けて、トイレもひとりで行けるような人達が世間にはうようよしてるという事実にまたコンプレックスを刺激され。
こんな感じで、自称ダメ人間はできあがりである。あー、僕はダメだなー。
実際そんなにダメかというと、全然そんなことなくて、毎日おもしろくもない仕事やらされてるのに、朝がんばって起きて、満員電車に文句も言わず(いや、言うけど…駅員さんとかに迷惑かけないし…)、会社に出てるだけでも十分立派だと言えなくもない。
じゃあ、会社行かないでひきこもってる人がダメかというと、全然そんなことなくて、上で書いたように、「お前なんか社会に出ても何の役にも立たない」と言われ続けてきたら、「じゃあ、仕事なんてしないほうが、社会のためだなー」とかいうような結論になるのは当然であって、むしろ、そこまで言われても、まだ、会社へ出勤し続ける人のほうが頭がどうかしてるかもしれない。(そういう意味でいうと、僕のように、自分でダメだと言いながら、会社に行ってる人間は小中学校で、仕事するのは当然だと洗脳されて、思考が停止してしまってると言えるかもしれない)
全然参考じゃないけど思い出した。蟻よっ!あなたたちは洗脳された蟻なのよっ!
んで、その「ダメだー」と言ってるのには、それほどネガティブな感情を込めてない、というのも特徴だと思う。いや、もちろんネガティブな感情は、たっぷり詰めこんであるのだけど、ネガティブな感情だけでなくて、「あー、こんなにダメな僕でも今日一日生きていけました。社会のみなさんありがとう!ありがとう、おてんとさま!」と、いうような意味も込められているとか、そんな感じで。調査したわけじゃないのでわからんけど。
全く何の結論も出ない、上手な日本語の文章なのだが。(あっ、ちゃんとした日本語ぐらい書けるじゃないか!)
というわけで、なんだ…いや、適度にこういう文章を出力しとかないと、会社に洗脳されてしまわないか不安なんですよ。
今の日本における閉塞感は、「真面目に仕事するのが素晴らしい」と言いながら、会社に洗脳されてきた人達が引き起こした悲劇とも言うべきで、そんなことではいけない!僕が「ダメダヨー」と、主張するのは、そういった社会の洗脳から逃れるための、高等かつ、社会的かつ、文明的な行為であって、僕がダメなんじゃない!「技術もあって、文書読んだり書いたりできて、ビジネスマナーちゃんとしてて、英語できて、良い大学出てて、コミュニケーション能力高くて、会社に忠実な人間」を求め続けた社会がダメなんだぁぁー(←中二病)
まとめ: 僕はちゃんとした日本語を書けないというコンプレックスが刺激された。
あー、あと、社会人レベルが下がるのはダメな点じゃないです。素晴らしいことです。
配列
Adaの素晴らしい点に配列へのこだわりがあると思う。
Adaでは、長さの違う配列は、違う型になるし、可変長の配列は、また別の型になる。
Cの「配列からポインタへの変換」は、地味に気持ち悪かったりするのだけど、そこらへんがちゃんとしてる感じ。(あと、「関数から関数ポインタへの変換」も地味に気持ち悪い)
procedure Array_Type_Test is type N10 is array (0..10) of Integer; -- 整数10個の配列 type N8 is array (0..8) of Integer; -- 整数8個の配列 function Ref_Array_3 ( C: access N8 ) return Integer is -- 整数8個の配列へのポインタをとる関数 begin return C(3); -- 3番目の要素を返す end Ref_Array_3; A : aliased N10; -- 10個の配列 (aliasedってなんじゃろ) B : Integer; begin B := Ref_Array_3( A'Access ); -- エラー N8とN10は違う型じゃよ。 end Array_Type_Test;
いや、Adaでは、そもそも違うところで定義した配列型は違う型になってしまうんだけど…
procedure Array_Type_Test is type N10 is array (0..10) of Integer; -- 整数10個の配列 type N10_2 is array (0..10) of Integer; -- 整数10個の配列 function Ref_Array_3 ( C: access N10_2 ) return Integer is -- 整数10個の配列へのポインタをとる関数 begin return C(3); -- 3番目の要素を返す end Ref_Array_3; A : aliased N10; -- 10個の配列 (aliasedってなんじゃろ) B : Integer; begin B := Ref_Array_3( A'Access ); -- エラー N10とN10_2は違う型じゃよ。 end Array_Type_Test;
このことは、静的なチェックを強力にするのと、実行時の配列境界チェックのコストを減らすという意味で、役立つかもしれない。どういう場面で役立つかについては、読者の宿題とする(←なんか面倒になったらしい)
上の話
あ、忘れてたけど、一応結論は考えてあったんだった。忘れる結論ってどんなんだよって感じだが。風呂入ったら思い出した。
上の話は、つまり、どうせやらないし、やろうとしても無理なのに、「〜ぐらいできないと」とか考えるのが問題なわけで。対策としては、気にしなければいいんだという話。
だから、「〜なら〜ぐらいできて当然」「〜なら〜ぐらい知ってるべき」「〜なら〜ぐらい読むべき」とか、そういうふうに煽られたときには、[あとで考える]タグでも付けて、脳内ブックマーク(注:一時記憶。寝たら初期化されるものだけを指す)へぶちこんでおけばよろしい。
多分、その人の言ってることは正しいのだろうけど、どうせ必要になるまでやらないだろうし、必要になったときは嫌でも勉強することになるだろうから、忘れてもそんなに支障は無いはず。いや、なかなかそんなふうにも割り切れないものなんだけど。